1月3日。

この日は、私達家族が4人から3人になった日。
あの日から2年が経ちました。
早いものです。

あの日、雲一つない穏やかな晴天のなか、
「まさか、大丈夫」「もしや、いや大丈夫」と自問自答して
富里の自宅から都内の病院へと車を走らせました。

「ご家族も一緒に、早く来て下さい」という連絡でしたので、
どうにも良い予想は出来ませんでしたが、
結果は最悪のものとなってしまいました。

病院に着き、直ぐに病室へ案内され、
物々しい器具を着けられたベッドの妻に、
3人で声を掛けて励まし、
それに懸命に頷く妻。

一旦は小康状態になり、
医師からも「なんとか・・・」という説明がありましたが、
ICUに移動した直後、直ぐさま家族全員で呼び出され、
消毒や白衣への着替えさえも許されて入室。

ベッドの妻の両手を私と息子達で握りしめ、
何度も何度も声を掛けましたが、
もはや奇跡は起こらず、
私達の目の前で彼女は旅立ってしまいました。

勇弥は入試の2週間前でしたが、
葬儀には現在の高校の総顧問の先生、
それに、当時の部員全員が弔問に来てくれました。

昨日、雄大のお母さんがお花を持ってきてくれました。
妻の命日を忘れないでくれていたんですねぇ。
ありがとうございます。

中学3年生の勇弥&雄大の試合を
妻と雄大のお母さんとが並んで座り、
それこそ一喜一憂して観戦していたのを思い出します。

妻は、勇弥&雄大の試合が近づくと
「あードキドキしてきた」なとど言って落ち着かず、
勇弥&雄大が不甲斐ない状況になっても
「大丈夫、頑張れ」とか「ここから、いっけぇー」などと言い、
私のように怒るような事は全くなかったなぁ。

試合に負けても
「あー、負けちゃったかぁ」程度で、
「よし、また練習だ~」なんて、
切り替えが早かったなぁ

私は料理は殆ど出来ず、
せいぜい1品作る程度ですから、
妻が入院してからは、
まともな料理を食べさせてあげる事が出来ていません。

スポーツをやるのであれば
「食事が基本」とよく言われますが、
多少は気にしているものの、
母が作るものとは比べものになりません。

そのせいか、他のお母様が作って下さったものを頂くと、
勇弥も祥吾もとても嬉しそうに食べます

母親がいない事で、父がだらしない事で、
勇弥と祥吾には何かと不自由を強いているとは思いますが、
きちんと育っているのかどうか・・・・

試合会場で、お母様やご両親に応援されている選手を見ると、
温かくて、優しくて、いいなぁと思います。

勇弥は、いつの頃からか、
天に届けとばかりに大声を張り上げてプレーします。
祥吾は、まだまだかな

あの日から2年。
なかなかに辛い試練を与えられたと思いますが、
今はソフトテニスが心の飢えを凌がせてくれている、
そんな気がします。

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妻39歳  祥吾8歳  勇弥11歳
確かにあった、私達の時間。